『新版-犬が星見た-ロシア旅行』(中央公論新社) – 著者: 武田 百合子 – 中野 翠による書評

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『新版-犬が星見た-ロシア旅行』(中央公論新社)著者:武田 百合子
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来年こそ日記を書こう……
さて。私の一番の憧れは武田百合子の日記である。彼女の日記ほど五官のよさを感じさせるものは珍しいだろう。『犬が星見た』から始まって『富士日記』(上・中・下)、『遊覧日記』、『日日雑記』とあって、どれも面白いが、私は『犬が星見た』が一番好きだ(いずれも中央公論新社『武田百合子全作品』全七巻)。昭和四十四年、武田百合子は夫の泰淳から「つれて行ってやるんだからな。日記をつけるのだぞ」と言われ、ロシア旅行一カ月の間、日記をつけていた。自分からすすんで書いた日記ではない。しかし、それは、もし日記の神様というものがいるとしたら、武田百合子は生まれた時から神様に選ばれていたかのように、日記文学の才能を発揮してしまったのだった。鋭敏な観察眼と人物描写の妙、闊達な書きっぷりには、まったくほれぼれとしてしまう。特に、ツアー仲間の一人で、「わし、よう知っとった。前からよう知っとった」が口癖の銭高老人の描写に唸る。例えば、劇場で芝居を見た時の話。
銭高老人のそばのアメリカ人らしい老婦人が、ときどき痰のからんだ咳をする。咳こみだすととまらない。水を打ったように静まり返ってしまった観客席に咳だけが遠慮がちにしばらく響く。咳がはじまるたびに、銭高老人は席から乗り出し、上半身をのび上らせ、首をまわして、周囲の人たちに顔を見せる。〈私が咳をしているのではないですぞ。これ、この通り。咳をしているのは、この隣りのおばはんですぞ〉という風に。
老人

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