『abさんご』(文藝春秋) – 著者: 黒田 夏子 – 小野 正嗣による書評

書評総合

『abさんご・感受体のおどり』(文藝春秋) 著者:黒田 夏子
読むことの不自由さからの解放
〈読む〉とはどのような行為なのか? 画面をありのままに見ることの困難さを繰り返し述べてきた国際的な映画批評家・蓮實重彦氏が映画について述べたことは、文学にも当てはまる。我々は読んでいるつもりで何も読めていない。『abさんご』を読むとは、我々のまなざしが文字に触れることを妨げる思い込みから自由になることなのだ。 なるほど本書は日本語小説とは思えぬ佇(たたず)まいだ。芥川賞受賞作は横書きで、句読点ではなく、コンマとピリオドが使われる。頁(ページ)は左から右に読まれる。ただそのような形式的な面白さはこの小説の魅力のほんの一部でしかない。 スマホやネットの発達で文字が未曽有なほど日常に溢(あふ)れるいま、我々はなぜか言葉は透明だと疑いもしない。言葉(a)は物語内容(b)を運ぶ記号であり、これが気にならず、すっと読めるのがいい小説と思い込んではいないか。a=bの誘惑はかくも強い。 だが断じてa=bなどではない。「abさんご」の平仮名を多用した文体は、漢字による意味の視覚的把握に慣れた読者を惑わしながらおのずと音読を促し、我々自身の身体とともに、言葉それ自体の血肉を意識させてくれる。 幼い頃に片親を、そしてその38年後にもう片方の親をなくした〈子〉の記憶に寄り添うようにして書かれたこの小説には、人名を含めた固有名詞がほとんど出てこない。言葉は本来、遠くからゆっくりと手探りするように対象や記憶に近づくしかないからだ。その運動=時間に付き合うこと。それこそが読書の豊かさであり、いつの間にか読者の〈私〉

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