『五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック』(河出書房新社) – 著者: 吉見俊哉 – 村上 陽一郎による書評

書評総合

『五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック』(河出書房新社) 著者:吉見俊哉
スポーツに食い込む政治
最初に極めて個別的な場面を話題にするが、第三章で、人間が書いた遺書のなかでも、かつて飛び抜けて強い印象を私の心に刻み込んだ一節に、本書で再び巡り合った。そう、円谷幸吉のあの文章である。「美味(おい)しうございました」を幾つも重ねた上で、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」、そして「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれる。仲間にこのような痛切極まりない言葉を吐かせる人間社会とは、何と残酷なものか。オリンピックとはスポーツの祭典である、あるいは、ことになっている、と付け加えるべきか。スポーツとは、と今更振りかぶる必要はないが、本来<dis−port>に淵源(えんげん)し、「離れたところへ運ぶ」が原義である。日常の大事・些事から「離れた」ところへ人を「運んでくれる」のがスポーツ、苦しいもの、辛いものではない。まして、人を死に追いやるような、犠牲を強いるものであるはずはない。しかし現実は。この書は、結局、スポーツの祭典であるオリンピックが、人間社会の制度のなかに組み込まれたときに、どのように変質し、どのように人間性まで変える働きをしてきたか、その現実を丹念に掘り起こした労作である。特に人間社会の制度のなかでも、最も「非人間的」であるがゆえに、これほど「人間的」なものはない、と思われる政治が、どのようにオリンピックを頂点とするスポーツの世界に、食い込んできたかが、鮮やかに浮き彫りにされる。例えば、第二章、今「聖火」のギリシャでの採火はともか

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