『蟹の横歩き―ヴィルヘルム・グストロフ号事件』(集英社) – 著者: ギュンター・グラス – 豊崎 由美による書評

書評総合

『蟹の横歩き―ヴィルヘルム・グストロフ号事件』(集英社) 著者:ギュンター・グラス
イラク戦争開戦直前に、ブラジルの作家コエーリョが主要メディアに寄せたメッセージは素晴らしかった。「ありがとう、偉大な指導者ジョージ・W・ブッシュ」で始まるその文章は、「ありがとう、私たちを無視してくれて。あなたの決断に反対する態度を明らかにしたすべての人を除け者にしてくれて。なぜなら、地球の未来は除外された者たちのものだから」「ありがとう、(中略)私たちに無力感とはどんなものかを味わわせてくれて。その無力感といかにして戦い、いかにしてそれを別のものに変えていけばいいのか、学ぶ機会をあたえてくれて」と、反語をもって痛烈な批判を喰らわしたのだ(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2003年)。『ブリキの太鼓』で知られるノーベル賞作家グラスもまた、戦争という人類最悪の選択、その真実を描き、警鐘を鳴らし続ける力強い言葉の担い手だ。第二次世界大戦終結直前の一九四五年一月、ナチス・ドイツが誇った豪華客船がバルト海沖で敵国の潜水艦によって撃沈され、九〇〇〇名余もの死者を出した史上最大の海難事故「ヴィルヘルム・グストロフ号事件」。タイタニック号のおよそ一〇倍もの死者を出しながら、歴史の闇の中に葬られたこの悲劇を語り起こすことで、グラスは人が人を憎み、国が国を滅ばし、民族が民族を浄化しようとする悪しき鎖が、今もなお断ち切られていない事実を明らかにする。ノンフィクションとフィクション双方の語り口を絶妙に織り交ぜながら。物語全体の語り手は、グストロフ号にいた母親が沈没直後に産み落とした「私」。が、母親の

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