『律令国家と隋唐文明』(岩波書店) – 著者: 大津 透 – 出口 治明による書評

書評総合

『律令国家と隋唐文明』(岩波書店) 著者:大津 透
中央集権、誕生のプロセス描く
対外的な意味で「日本」という国号が定まったのは703年のことである。本書は、663年の白村江(はくそんこう)での敗戦の後、緊迫した国際状況の中で権力集中を目指して律令国家が生まれるプロセスを描いた「日本誕生の物語」である。隋唐による中国の統一は周辺諸国に激震を与えた。著者は、大化の改新の主体が孝徳天皇だったととらえ、唐の圧力に対抗するため朝鮮三国と共通する国家機構をつくる試みだったとみる。しかし唐に対する方針は定まらず白村江の戦いに至る。唐軍に敗れた倭は九州や中国地方に朝鮮式山城を築いて国土防衛に努める。羅唐戦争の10年が体制を立て直す時間を与えてくれた。この間、新羅は倭と親密だった。こうした東アジアの緊張の中で唐や新羅に滅ぼされない強力な支配を目指して律令国家(大宝律令・養老律令による)が作られる。しかしその実態は、当時の土俗的で未開な氏族制社会に唐の文明(律令)が接ぎ木されたものだった。天皇を支える五位以上の官人は伝統的な畿内豪族が独占した。それ以外には帰化人の貢献が大きい。遣唐使の吉備真備は歴史書や儒教の典籍を将来し、鑑真は仏典を将来した。藤原仲麻呂による唐風化政策はいっそうの文明化を図ったもので、その後の律令制展開の基礎となっていくものも多い。母が百済系帰化人の桓武天皇は、王統が天武系から天智系に替わったこともあり、従来の神話と血統による権威とは異なる権威付けを唐の皇帝祭祀に求めた。嵯峨天皇は中国的な儀礼を取り入れて天皇制の唐風化が進むが、それは天皇の司祭者としての日本固有の習俗、つまり

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